かりやの仮宿

方向性は未定。

たとえこの身に愛がないとしても。

誰かを好きにならなきゃいけない……?

誰のことも、どうでもよかった。

他人は代替可能で、それでも興味を持っているふりをしないといけない対象。

 

それなのに、私は問われ続けた。

「誰を好きですか」

「お母さんのどんなところが好きですか」

吐き気がした。

昔も今も、ずっとその質問が嫌いで、吐き気がする。

嘔吐感は、止まない。

 

それは、誰かを好きだとか、母を好きだとか、そういう前提を無条件に信じ切っているから出てくる質問だ。

 

私は、誰のことも好きじゃない。

ただ、「そこにある」と思っている。

敵意を向けられたり相手の行動が私の邪魔になったりすれば嫌うし、その逆なら好ましいとは思う。

 

でも、それは、「愛している」、ましてや、「あなたがいなきゃダメ」「あなたでなくてはいけない」なんていうものではない。

「好ましい」けれど、「あなたでなくてもいい」のだ。

 

まずは、「恋愛」の呪縛から解いた

異性愛規範の強い現代において、即座に「自分は恋愛をしない」と気づくのは難しかった。

男の人にときめかないことは肌感覚でわかったけれど、当時の自分にとって同性の友人達は時折魅力的だったからだ。

 

だから、しばらく自分はレズビアンを自認していた。

とはいっても、さして恋愛に積極的ではないし、女の人を魅力的に感じる程度。

誰かを好きになるとしたら、女の人なのかなとふわっと考えていた。

 

結婚したいわけじゃない。

添い遂げたいわけじゃない。

だけど、心のどこかに、「恋愛の意味で、誰かを好きにならなきゃいけない」という呪縛はあった。

 

そんなある日、私を好きになってくれた人がいた。

これ以上ないくらいいい人で、人として魅力的にも思うのに、恋愛感情も、性的な惹かれも、生じなかった。

相手から向けられるほどのものを、自分は微塵も持ち合わせていなかった。

 

拙い言葉でそのことを伝えたとき、ショックを受けたはずなのに、その人はアセクシュアルについて教えてくれた。

これが、私のアロマンティック/アセクシュアル概念との出会いだ。

 

恋愛をしないアロマンティック、他者に性的に惹かれないアセクシュアルだと自認して、とても楽になった。

恋愛の意味でも、性的にも、誰かを好きにならなくたっていいんだ。

長い間埋めこまれていた呪いが解けていく瞬間だった。

 

根深い呪縛を粉微塵に破壊する

私を好きになってくれた上で、アセクシュアルについて教えてくれた人とは、後に疎遠になった。

でも、その別れが、私がとらわれていた「しなきゃ」に気づかせてくれた。

 

アロマンティック/アセクシュアルを説明するとき、「恋愛や性的な意味での惹かれがないことを指すのであって、親愛や友愛がないとは言っていない」と言われることがある。

これは、「冷たい人間なんだろう」という偏見を避けるためなのだろうけど、私は何とも言えない気持ちになった。

 

だって、私は本当に「誰が誰でもいい」のだもの。

前述の人との別れにさえ、何も思うことはなかったことで、確信した。

私は誰のことも愛していないし、「あなたじゃなきゃダメ」なんて思うことはない。

 

アロマンティック/アセクシュアルの人間にぶつけられる偏見の言うところの「冷たい人間」そのものだ。

だけど、それで何が悪い。

「冷たい」からって犯罪を企んでいるとは限らないし、実行するとも言い切れない。

 

アロマンティック/アセクシュアル同様、「冷たい人間」たる私もいるのだ。

ただ「そこにある」、それだけのことだ。

みんな違って、みんなどうでもいい。

 

誰かに執着しなくていい。

愛さなくていい。

その人を愛さなくても、尊重することはできる。

それならそれでいいじゃないか。

 

あなたがいなくても生きていけるけれど

そもそもこれって、どんな人と関係性を作るか、あるいは作らないかの話なのかもしれない。

 

私は「あなたがいないと寂しい」「あなたじゃなきゃダメ」と言ってくる人より、「あなたがいなくても私は生きていける」「でもあなたがいたら楽しい」と言ってくれる人がいい。

私もそう思える相手となら、ともにありたい。

 

それは一般的な「誰かを愛する」でもないし、「大切にする方法」でもないのかもしれない。

でも、私は、それぞれに一人歩んでいる人と、一つになるのではなく、「ひとりとひとり」をやりたい。

 

私は、冷たいんじゃなくて、世間一般より他人への執着が薄いだけのことかもしれない。